江戸庶民から「反感」を買った鳥山検校
蔦重をめぐる人物とキーワード⑧
■人気遊女の身請けが転落のきっかけに
鳥山検校は盲人で構成された職業団体である「当道座(とうどうざ)」の最高位に就いた人物で、江戸時代の視覚障がい者のなかで大きな成功を収めた豪商としても知られている。生没年は不詳。「検校(けんぎょう)」は個人名ではなく官名である。
盲人の多くは、互助組織である当道座に入門し、三味線や琵琶、琴といった芸能、俳諧などの文学、あるいは按摩などの職を得て生計を立てていた。この組織は、鎌倉時代から室町時代にかけて形成され、もともとは盲人が琵琶などを演奏することが活動の中心だったとされる。やがて、貴族や武士に招かれて演奏する集団が、「当道」を自称するようになったという。
当道座には検校、別当、勾当(こうとう)、座頭など73もの階級があり、業績を上げたり、または金銭を支払ったりすることで昇進できる仕組みだった。最上位の検校になるためには、700両以上の資金が必要だったとされる。
こうした視覚障がいを持つ人々のための保護政策は、幕府やそれぞれの藩によって整備されており、具体的には年貢の免除や金銭面での援助などだが、江戸幕府は高利貸し営業の権利も与えていたという。その利益を互助資金に充てさせるためだったようだ。
こうした特権を利用し、武士や商人に貸し付けて莫大な財産を築き、検校の座に上り詰めたのが鳥山検校である。
苛烈な取り立てをしていたようで、少しでも返済が滞れば、その門前に大勢のならず者を立たせ、これ見よがしに罵倒の声をあげさせたらしい。借り手が武士の場合、主君に借金を知られたくない弱みもあって、抗議のしようもなかった。厳しい取り立てに耐えかね、ついに武士をやめて家出したり、切腹する者もいたという。
この頃の吉原遊郭で豪遊していたのは、盲人の高利貸しが多かったとする説があるほど、彼らが莫大な財産を築いているのは、江戸の庶民に広く知られていたようだ。強引な取り立て話は枚挙にいとまがなく、快く思う庶民はほとんどいなかったという。
彼らの頂点に立つ鳥山検校が、松葉屋の花魁(おいらん)・五代目瀬川を身請けしたのは、1775(安永4)年のこと。江戸っ子たちを驚かせたのは、1400両という巨額の身請け金だった。現在の価値に換算すると1億円を超えるといわれているから、鳥山検校の資産は桁外れのものだったと考えられる。
しかし、この身請け話が世間に注目されたことで鳥山検校の存在が際立ち、ついに奉行所が動き出した。鳥山検校が貸し付けた相手は、旗本や御家人といった武士が多く、夜逃げや破産など数多くの被害が報告されていたからだ。1778(安永7)年閏7月には、森忠右衛門という200石の下級旗本が出奔する騒ぎとなっていた。
加えて、幕府から与えられた特権が遊女の身請け金として使われることに反発する見方もあったようだ。
その結果、鳥山検校は全財産を没収の上、江戸を追放された。かねてから派手な振る舞いに反発していた庶民にとっては、胸のすく思いだったかもしれない。
1791(寛政3)年に鳥山検校は復帰したとされるが、再び金融業に携わったかどうかなど、活動の実態は不明。なお、瀬川のその後も諸説あり、詳細は分かっていない。どうやら鳥山検校が処罰を受ける前後に、二人は離縁したらしい。武士と再婚し、その後、大工の妻になったという話もある。
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